21 「でさ、実はそのあとがあったの……」「分かった、やっぱりやり直そうってやつ」「ビンゴ! 『今から結婚申し込んだら別れないで自分との結婚を考えてくれるのか』って。 電話掛かってきた」 「すごい、ドラマみたい」 「私ね、ちっとも嬉しく感じなかったし、心も動かなかった。 もうほとほと彼に冷め切ってたんだろうね。自分でも驚くくらい冷めてた」 「そっか。絵里が別れを切り出してから結婚の話を出してきたのかー」「婚活が上手くいかずに悶々としていたら、どうだったかなっていうのは 考えないでもないけど、所詮タラればの話をしてもしようがないもんね」「そうだよね。それでその川上さんとはその後どうなったの?」「お蔭さまで、順調に交際が続いて、お互いいい年だから結婚急ごうってことで 12月に挙式することが決まってるの。 実はね、入籍は済ませていて今は半同棲中なの」 「すごいね。前の彼とはなかなか結婚までいかなかったのに~」「そうなの。自分でもびっくり、こんなにとんとん拍子に物事が運ぶなんて。 去年の今頃は、どうして剛《つよし》は結婚の話になるとスルーするんだ ろうってナーバスになってたでしょ? 1年後に結婚してるよって過去の 自分に教えてやりたいわ、全く。ふふっ」 「おめでとう、絵里ちゃん。ほんとによかった」 私はこの日、とうとう自分の話はできずじまいで絵里と別れた。不幸な人間が1人減ってよかったよ。 1人増えたからプラマイゼロだけどさ。 あーあ、絵里ちゃんもついに人妻だね。私は……。 綺羅々と初めて会った日からひと月が経っている。絵里の幸せな話を聞いて私は綺羅々に会いたいと切実に思う。 人恋しくなっちゃったかな?
22 綺羅々と美鈴は元々金星人でカップルだった。たまたま地球を訪れた折に、人がどのようにして産まれ落ちるのかに興味を持ち、見学していた時のことだった。ふたりは人が産まれ落ちるため天界で順番待ちしている魂たちに混じり、その様子を見ていた。小さな天使たちがそれぞれ指示役の天使から、あなたはここから行きなさい、あなたはそっちから行きなさい、というように言われ、各々長い滑り台を嬉しそうに滑っていく姿が見えた。見ているうちに見物していた美鈴はよろけてしまい滑っていくはずの天使の前に転がり、そのまま自分の意志に反してその子が滑る前に長~い滑り台の上を転がるようにして下界へと滑り落ち、すなわち現在の美鈴の母親である人のお腹へと着床してしまった。こんなふうにして両片想いの綺羅々と美鈴とは地球ではぐれてしまった。そのため、綺羅々は美鈴が地球での一生を終えたら迎えにいこうとずっと見守っていたのだが、幸せに暮らしているはずの美鈴が悲しみに暮れているのを知り、接触したのだった。金星人の時も美しかったが、人間に生まれ変わった美鈴も美しい女性へと成長を遂げていた。しばらくぶりに会う美鈴に……慰めの言葉と共に思わず抱きしめたくなったが、彼女を驚かせパニックに陥らせてはいけないと、なんとか自重する綺羅々だった。『美鈴、僕がこの先はサポートするから……頑張れっ』フォローする気満々の綺羅々なのだが、あれからひと月経つが美鈴からの呼びかけは今のところなく、なんだか寂しい。幸せいっぱいの友人の話を聞かされて久しぶりに綺羅々に会いたいと思う美鈴と、悲しい気持ちでいる美鈴をサポートしたいと考えているのに一向に連絡が来ないことに焦れている綺羅々。そんなふたりの気持ちが必然のようにクロスし、スパークする瞬間が……。
23『綺羅々……会いたい。私のところへ来て』キター、美鈴からの要請が……。美鈴からの会いたいというメッセージを受け取り駆けつけたのは、前回と同じ場所だった。俺は彼女を驚かせないように、彼女の後ろにある椅子に座り声を出して存在を教えた。「美鈴さん、お久しぶりです。僕はあなたの後ろにいます。連絡を待ってましたよ」彼女はゆっくりと後ろに向き直し、破顔した。「ほんとに、綺羅々さんだー。うれしいっ。来てくれてありがとうございます」「以前よりお元気そうで何よりです」決して慰めるためにオオバ―な物言いをしたわけではなく、ほんとに目の前の彼女は、前回会った時のような負の感情がほぼなくなっており、肌の色艶も美しく、何より目に力が宿っていた。俺は半歩進んで彼女の隣に座り直した。「会わなかった間に何か、心境の変化でもあったのですか?」「ありました……。あなたに励ましてもらって元気が出ました。そして元気が出ると前向きな思考ができるようになって。この1か月自分にできる範囲でポディティブに過ごしました。そしたら……」「そしたら?」「これからどうしたいのか、どうすればいいのか、そんな先のことまで見えてきたの」「よかった。それを聞いて安心しました」「ご心配おかけしてすみません」「いえいえ……その見えてきたことを行動に移したりする時に何かお手伝いできることがあれば遠慮なく言ってください」「ありがとうございます。もう~、そんな素敵なこと申し出てくれる人なんて、綺羅々さんしかいません。綺羅々さん、やさし過ぎますっ」俺の申し出に美鈴さんが半分涙声になっているのを見て《聞いて》思わずハグしてしまった。「驚かないでじっとしてて、ハグだけだから」そう囁いて俺は隣に座る彼女を肩越しに緩く両腕を回した。「これ、応援のハグ……。1・2・3」数えてから、彼女にお願いをした。「目を瞑っててね」と。それから俺はそっと彼女から離れた。 彼女はちゃんと目を閉じてくれていた。良かった。恋人同士でもなく外国人でもなくのハグはたぶん、お互い恥ずかしいものがあると思うから。「何か手伝うことがあったら、いつでも僕を呼んで。じゃあ、また」そう伝えて、今日のところは彼女の前から早々に消えることにした。
24 彼女はちゃんと目を閉じてくれていた。良かった。恋人同士でもなく外国人でもなくのハグはたぶん、お互い 恥ずかしいものがあると思うから。 「何か手伝うことがあったら、いつでも僕を呼んで。じゃあ、また」そう伝えて、今日のところは彼女の前から早々に消えることにした。 『綺羅々……』 一瞬の温もりを残して目の前から消えてしまった人。 彼はやさしい男性《ひと》だから……だから、可哀そうに思ってハグしてくれただけなのよ。 他に何の意味もないことなのよ、彼にとってはね。 まだ二度しか会ってない相手からハグされ、私は戸惑いを隠せなかった。 彼のハグには性的な意味はなく、慈愛のハグだと感じられた。 心が弱っている時に言動で慰められるというのは、グッとくるものがある。 それにしても、彼の引き際の良さには感心する。お陰で顔が赤くなったのを見られずに済み、ほっとしたのも本当だけれど、 折角会えたというのに一緒にいられた時間があっという間で残念な気持ちも ある。 次会える時は、もう少し話がしてみたいな。 このあと、美鈴は綺羅々のことに思いを馳せながら、森林植物園の中を さまざまな木や花を愛でながらゆっくりと散策し、そしておひとり様で カフェに入りお茶を飲んでから帰路についた。おひとり様でも心細さはなく、心は凪いでいた。自分を案じてくれている男性《ひと》がいることを知っているから。
25 ―――― 美鈴が綺羅々との再会を果たした頃……。若くてきれいな真知子に溺れる知紘。付き合って丸3か月が過ぎたバカップルは、4か月目に入っても会うと、昼食のあとすぐにモーテルへin.いつもなら、服を脱がし合いながらシャワールームへGo.……なのに今日はなんだか真知子の様子が変なのであった。「知紘くん、私たち付き合ってもう3か月も経つよね。毎週毎週出掛けてて奥さんは何も言わないの? 浮気とかって、疑ったりしないの?」「マチ、いきなりどうした? 俺の奥さんは寂しがってるけど浮気のことはどうかな。あからさまに疑われたりして責められたことはないから、どうだろうね。俺がマチに夢中なのは知ってる……と思う」何やら、知紘が妻とのことをああだこうだと説明してくるけど、今の真知子にはどうでもよかった。真知子が知りたいのはもっと別のことで重大なことだ。離婚後の生活は寂しいものだった。恋愛体質の真知子は寂しくて寂しくて毎日がたまらなかった。そんな時だった。 ◇ ◇ ◇ ◇学生時代の友人を遊びに誘うと『その日は野球チームに入ってる旦那の応援に行くから』と一度は断られるも、『そうだ、よかったら暇つぶしに私と一緒に野球の試合、見に行かない?』と逆に誘われた。『ほとんど妻帯者ばっかりだから、そういうの……恋人探しには向かいなけどね』と言われていたのでその時はあまり期待はせずに友人と出掛けたのだった。聞いていた通り、独身者は若い男子《こ》ばかりで自分と釣り合いそうな年齢の男性《ひと》は皆、既婚者だった。期待できない中で、知紘が熱心に粉をかけてきた。練習終わりに皆で食事をし、一旦解散。そのあとの二次会に誘われた真知子は、知紘から綺麗だ、可愛いだのと、いろいろ心地よい言葉の羅列を浴びせられ、その言葉に力づけられて、二次会へと知紘や他のメンバーに伴われ付いていった。解散時、旦那と一緒に帰るグループにいた友人からは、こそっと注意された。「真知子、野茂くんには可愛いくてデキタ奥さんいるんだから、歯の浮いたこと言われても真に受けちゃだめだよ。結婚相手探すなら、よそで探した方がいいわよ」と。
26見た目のよい野茂知紘は自分の好みにぴったりで、おまけに彼の方から 粉をかけてくるのだから寂しい女からするとひとたまりもない。この時の真知子にしてみれば、心も体も慰めてくれる人なら 最初はただの浮気相手でもよかった。 友人に忠告されなくても、婚活はしていた。だけど、結婚相談所で紹介された相手とは、とてもじゃないけど 恋愛の『れ』の字も介在しないのだ。見合いなのだからと言われればそれまでだが、恋愛結婚を経験し、 恋愛体質の真知子には空し過ぎた。 この三か月余り、激しく自分にのめり込んでいる知紘を見ているうちに、浮気相手でもよかったという想いが、結婚を望んでもいい相手に変わった。そう真知子に思わせるほど知紘は彼女にメロメロだったのだ。だから……思わず訊いてしまった。 「私とのこと、どう思ってるの? 奥さんと別れて結婚? なんてしてくれたらうれしいなっ」正直結婚までは考えていなかった知紘は驚いた。 だが相手に積極的に請われ、だんだんその気になる知紘。「そうだね、でも俺の奥さん仕事も家事も……特に料理も上手くて頑張 ってる人だから、簡単にはいかないかな。少し、時間が必要だよ」 『えっ、ダメ元で聞いたのに可能性あるんだ』 「ありがとー。……っていうことは、結婚の可能性あるんだよね。 どーしよう。うれしいー。1年や2年ならぜんぜん私、待てるから。 知紘くんのこと好きだもん」 急に結婚を請われて深く考えもせずに答えた知紘は、うれしいーだの、 知紘くんのこと好きだもんなどと言われ、ますます舞い上がるのだった。ただ、この時も美鈴との離婚は現実的ではなかった。その場の出まかせとまでは言い切れないが、浮気の延長線上のもので、 まぁ言うなればピロトークのようなもの、その場限りのリップサービス ……の域を出てはいなかった。
27「私ね、実はお話してないことがあるんだー」「何かな、どんなこと?」「私……3才になる息子がいるの。 結婚の話が出たから隠さずにちゃんと話しとくね」知紘は息子がいると聞いて驚いた。 今頃になって子供がいる話をするなんて詐欺じゃねーか、そう思った。ヤバい、非常にヤバい。 真知子から子供がいるという話を聞いた途端、知紘は及び腰になるのだった。しかし、今まで散々綺麗だの可愛いだのと褒めちぎり、食事に洋服、 アクセサリーだのとたくさんの金もつぎ込み惚れてるよパフォーマンスを 散々しておいて、ここで急に潮が引くようにデートするのを止めてしまったら、 どんなことになるか想像するだけで怖ろしい。 騙されたと野球チームの皆や妻の美鈴、果ては会社にまで自分たちの関係を 暴露して回られた日にはオワリだ。 このあと、頭が真っ白になり何も考えられなくなった知紘は、曖昧な笑みを 浮かべ真知子の話に相槌を打ち、身の入らないおざなりな真知子との性行為 を済ませ、そそくさといつもより早めにデートを切り上げて家に帰った。 ************* 子供の話をした途端、明らかに挙動不審になった知紘に……。『あ~、結婚は難しいかなー』とガックリきた真知子だった。本人は一生懸命取り繕っていたが、見ていて痛ましいほど無理しているのが 分かってしまった。それは会話のあとに繰り広げられた性交ではっきりと分かった。そんな知紘の様子にショックを隠せなかったが、ある程度覚悟はあったので 真知子はその日、少しの傷心を抱えて帰路についた。 真知子から自分には息子がいると聞いて知紘の頭の中に浮かんだのは、 今まで夢中になっていた真知子との性交渉についてだった。思わず吐き気を催してしまった。赤ん坊が出てきた場所で……その赤ん坊を作る行為をするため他の男の モノが何度も侵入した場所で、そこに自分のナニを喜んで抜き差しして いたという事実に今更ながらに気付いたからだった。この時が、知紘の中から真知子マジックがなくなった瞬間だった。
28それから2~3日、知紘はこれからのことをどうすればいいのかと、 ない頭を振り絞り、ある計画を立てた。 知紘の学生時代の友人に筧優士《かけいゆうし》というめちゃくちゃ 女にモテるヤツがいる。確か今、付き合ってる彼女がいるはずだが、奴の場合学生時代から 二股どころか4人と付き合っていたこともあるという猛者だ。知紘はこの筧に賭けてみようと思った。 そう、真知子と後腐れなく別れるために筧という餌を撒くことにした のだ。もし真知子に子がいなければ、万に一つ美鈴の代わりにと考えなくも なかったが、子供がいるとなると万に一つもさえもあるわけがない。実の子さえ経験値がないのに、他人の子などもってのほかである。間もなくして、カップルの友人たちと筧、そして自分と真知子という 組み合わせで一泊二日の旅行を計画し、実行した。筧にはわざと彼女を連れて来るようには知らせなかった。 流石、筧は筧だった。俺が真知子との結婚話に積極的でないことを薄々感じていた彼女が、 筧に靡くのは早かった。別に何かを真知子に聞いたわけでも筧に聞いたわけでもなかったが すぐにピンときた。 真知子が筧たちとの旅行から帰ると、それ以降野球サークルのある日に 彼女がピタっと来なくなったからだ。勿論、彼女からの連絡も一切ない。 俺もそれ以降真知子には連絡をしていない。たぶん、このまま彼女とのことは上手く自然消滅できるだろう。
84俺は知らないことにして尋ねた。だって、薔薇の部屋で勝手に覗いて読んだなんて言えないよ。「言って、それが何だったのかはっきり教えてくれないか」「綺羅々と奈羅が一夜を共に過ごしたと分かる映像が透明タッチパネルに送られてきたの。すごく悲しかった。私も綺羅々のこと好きだったから」もしもここで何も知らずに真実を知ったならと思うときっと、なんと怖ろしや、自分は混乱してしまったことだろうと思う。やはり、自分の知らないところで薔薇は苦しんでいたのだ。しかし、そうは思うもののせめて薔薇が自分を責めてくれていたら……と、到底無理なことまで考えてしまう。なんであの日酩酊状態になるまで酔っぱらってしまったのか、自分。なんで、もっと早くに薔薇に好きだと口に出して言わなかったのか。考えても考えても、後悔ばかりが襲ってくる。僕たちは奈羅の手によって両片想いを断ち切られていたのだ。しかも、薔薇も自分と同じ気持ちでいてくれたことを知った今では奈羅の所業は許せるものではなかった。そして薔薇を傷付けたことも到底許せはしない。「ただ酔っぱらって寝てただけなのに、君と僕の仲を裂くために奈羅が何かあると勘違いしそうな映像を君に送ったんだ、きっと。それが真相。あれから僕は君を上手くあの時の時間軸の金星にどうにかして連れ戻したくて、長老の所へ行き勉強してきたんだ。さぁ、まだ間に合うから僕と一緒に行こう」「綺羅々、ごめんね。私、ちゃんとあの時あなたに向き合えば良かった。でも好きだったあなたに奈羅とのことは本当にあったことだと……奈羅のことが好きだと言われるのが怖かった。本当に好きなのは彼女で私とは軽い気持ちで飲みに誘っただけだと知るのが怖かったの。早とちりして、地球に逃げてしまってごめんなさい。こんな私の事を長い間待っていてくれてありがとう。だけど……」「だけど?」
83 ―――――――――― 夫からの今際の遺言 ―――――――――「古の契りを結んだあの時よりも、一緒に暮らせた今生でもっともっと君を 好きになった。 今までこんなに人を愛したことはない。絶対次の世でも一緒になろう。 もしも、美鈴がはぐれてしまったとしても僕はまた何年、何十年、何百年か かろうとも這ってでも君のところまで迎えにいくよ。だから待っていて」『―――――― で待っていて』と夫は呟やきあの世へと旅立っていった。 ―――――――――――私は子供たちに見守られながら、現世を離れた。 今はあの世と現世の狭間にいる。 先に逝ってしまった夫は今どこにいるのだろう。 いないはずの夫の姿を探していたら見知った顔が近づいてきた。「綺羅々、どうして……」 「薔薇《美鈴》、君が誤って地球に生れ落ちてしまった時は本当に つらかったよ。 どうしてあんな場所に連れていったのかと自分を責めもした。 それで長い間君が地球での一生を終えるのを待ってたんだ。 迎えに来た。どう? 金星にいた頃のこと思い出した?」「どうして地球に来て私を慰めてくれたの? そしてどうしてこんなところで私を待ってるの?」 「薔薇のことが好きだからさ」「そうだ、私、薔薇って呼ばれてたのね」「思い出せたんだ、良かった」「でも、あなたは奈羅のことが好きだったんじゃ……なかったの?」「違うよ、僕は君が……君のことが好きだったんだよ」 「嘘っ。私はあなたに振られたと思い裏切られたような気持ちになって、 それが辛過ぎてあの日、わざと滑り台の上から地球上に滑り降りたの」「どうしてそんなふうに思ったの? あの日は酔い過ぎて失態を晒してしまったけど、僕は薔薇と初めていっぱい 話せてすごくうれしかったのに」「だって……奈羅から見たくなかったものが送られてきたのよ」
82美鈴と圭司夫妻は、結婚して2年後に娘を授かった。そして、そのまた2年後に息子を授かり、彼らは4人家族となる。結婚後、立て続けに2人の子供に恵まれた美鈴は、元々在宅仕事をしていて融通が利くため、下の子が4才になるまでほぼ専業で暮らした。なので、贅沢はできなかったが、休日になると圭司が子育てや家事をできるだけフォローしてくれ、ストレスが溜まりがちな子育ても楽しみながらでき、2人の子供たちに思い切り愛情を注ぐことができたことは、非常に喜ばしいことだった。そして、いつも美鈴のことを気遣い子供たちにも愛情をたくさん注いでくれる圭司との暮らしは、美鈴にとって夢のようでもあり理想的な人生となった。好き合って結婚した相手から裏切られるという経験をしていた美鈴は、再婚にあたり実は少し不安を抱えていた。どんなに誠実な人でも心というものを持つ人間には、心変わりというものが常に付きまとい、誰がいつ新しい出会いで気持ちに変化が訪れるのか、誰にも分からないものだから。 ***やがて、子供たちそれぞれに愛する人ができ、彼らが家庭を持った時、美鈴は感慨い深いものを感じた。私と夫はまだ今でも信頼し合い愛情を持って一緒にいられる。これは本当に幸せなことだわ、と。そして、家から子供たちが巣立ち、また元の2人の暮らしに戻り日々の暮らしを積み重ねる日々の中で、1日また1日と夫と仲睦まじく過ぎてゆく日々に感謝と喜びを胸に刻み続けるのだった。 ◇ ◇ ◇ ◇そのようにして2人の愛しき人生はその後も続き、85才で圭司は天寿を全うし、美鈴もあとを追うようにして2人の間にもうけた息子と娘に看取られて、88才老衰で長患いすることなく別の次元へと旅立っていった。 ――――――――――――――――――西暦2022年からお話は始まっていますので、根本圭司が亡くなるのは――2077年頃 根本美鈴が 〃 2075年頃 すごいっ、どんな世界なのでしょう。 ――――――――――――――――――
81大好きな男性《ひと》の肌に触れ続けていくうちに、声にして出《だ》そうなんて思ってもみなかった言葉がいつの間にか零れ落ちる。「あなたが赤ちゃんだった頃、ヨチヨチ歩きを始めた頃、たどたどしく話ができるようになった頃、運動会で走っている姿、学生服を誇らしげに着ている姿、大学生のあなた……どのあなたも見ておきたかった。私を見つけてくれてありがとう」そう告げながら美鈴はいつの間にか圭司の背中に全身を預けて、そして泣いていた。この時の美鈴の心情は、恋人としてだけではなく母性の加わった母親でなければ感じられないような域にまで達していた。それまで美鈴の下で心地良さとともに美鈴の重みに耐えていた圭司が美鈴を抱きかかえるようにしてグルリと身体を動かし2人の位置が反転した。圭司が美鈴を組み敷いた格好になり、美鈴の目に溜まる涙を親指の腹でひとすくいしたあと、近くにあったティッシュを渡してくれた。「ありがと。君のやさしさが心に染みたよ。幸せなのにすごく胸が苦しい。この苦しさを解放したいな」そう言うと圭司の口付けが、美鈴の顔の上に落とされ、やがて口元へそして最後に唇へとやってきた。幾度となくはまれ、ついばまれ、美鈴は切なさと喜びが綯《な》い交ぜになり何も考えられなくなる状況の中、されるがまま圭司の行為を受け入れた。この夜のことは、二人にとって生涯忘れがたく素晴らしい時間になったことは言うまでもない。このようにして、この旅で互いの絆をより一層深めて帰路についた2人は、バタバタとその後、それぞれの遠方に暮らす両家の親に挨拶に行き、結婚式も挙げず記念撮影のみで籍だけ入れて結婚を済ませた。
80 「有難いけど……君よりデカい僕の身体を抱くのは難しいんじゃない?」 「そうなの、そこが大問題なんだけどでも抱きたい。 どうしたらいいかなぁ~」「じゃあさぁ、取り敢えず君の前に滑り込んでみようか」「うん」 『馬鹿だなぁ~そんなの無理だよ』とか一刀両断せずに、協力してくれる 彼に私は増々恋心と切なさとを募らせた。私の両脚の間に座った……座ってくれた彼、疲れるだろうに程好い加減で 私に半身を預けてくれる。 到底私が腕を回しても両手を組めそうにもない彼の身体を後ろから抱きしめる。 私は彼の逞しくてきれいな肌の背中に顔を埋《うず》めてみる。「いい匂い……石鹸の匂いがする」「いい気持ち、背中でいい気持ちになったのは初めてだよ」「「ふふっ」」 「ありがと。この体勢だと圭司さん疲れるでしょ。 あのね、ほんとに気持ち良くなってもらいたいから今度はうつぶせ寝に なってください」私がそう言うと、うつ伏せの体勢になるため起き上がった彼が、座っていた 私の手を取り、立ち上がらせてくれた。 そして「じゃあ僕も少しの間ハグさせて」と言い、私はしばらくの間 彼に抱きしめられた。そしてそのあと、彼はベットに横たわりうつ伏せになった。「えーっと、今から私がすることって私にとっても初めてのことだという ことを知っておいてください。他の誰にもしたことがないことをさせていただきます」 『誰にでもするような変な女と思われたくなくて先に断りを入れた』「うん」圭司さんは俯いたまま返事をくれた。 今からしようとすることを考えると、こちらに視線を向けられなかったこと は有難かった。私は彼の腰辺りの位置に両膝をついて彼を愛でていくことにした。まず彼の肩から腕にかけて何度も両手で撫でた。背中、腰にも手を延ばし、マッサージを続ける。 「気持ちいい……」と言う彼の呟きが聞こえ嫌がられていないことを知り、 続けてそのまま愛でるように首筋から始まり腰までを、何往復も両手で緩急 をつけマッサージを続けた。
79◇その時がきた私たちはこれまでのようにまったりと2人の時間を紡いでいた。いつも会っている時は彼の存在を感じて幸せだった。そして別れ際におでこに軽いタッチのキスを落とされたことは二度三度あったけれど、そこ止まりの付き合いが続いた。そうそれは、まるで学生のような清い付き合い方だった。そのせいか週末会える時は、1週間分のトキメキとドキドキ感が半端なくいつかその日を迎える日がくれば、自分はどうなってしまうのかと不安を感じるほどだっだ。そんな中、いつものように近所回りを散歩して私の畑に差し掛かった時、圭司さんからゴールデンウイークに海外への旅行を誘われた。国内をすっ飛ばしてのいきなりの海外旅行に少し驚いたけれど、うれしかった。3泊4日くらいで行くことになり、私たちはその日を楽しみにお互い仕事や家事を頑張りその日を迎えた。――――――――――― 初めての夜 ―――――――――――旅行先の1泊目はお疲れ様タイムということで嘘のようだけど、友だち関係のように長年連れ添った夫婦のように疲れをとるため、お休みのキスだけをして静かに 就寝した。そして翌日はクイーンズタウンで観光を楽しみ、早めにホテルに戻った。今宵こそは私たちにとっての初めての夜で暗黙のうちに迎えた瞬間、その時はきた。 ◇ ◇ ◇ ◇先にベッドに入っていた圭司さんからシャワーを終えたばかりの私は『おいで』と手招きされる。私はドキドキしながら彼の横に滑り込む。彼がすぐに手を握ってくれた。「こっち向いて」「何か恥ずかしい」そんな言葉を口にしつつも私は言う通り彼の方を向いた。するとゆっくりと彼の口付けが私の唇に落とされた。それは軽くそして深く、互いの唇が重ねられていく。彼が私を見て微笑んでくれ、このタイミングを逃さず私は自分の切なる望みを口にした。「私、あなたを抱きたい《肌を合わせたい》全身全霊で」
78引き続き、2月も畑を耕す作業は続いた。そして今日も、私は相変わらず彼が耕運機で再度作業している横で、チマチマと畑の端で雑草抜きをした。今日もこのあと2人で夕飯を摂る。朝のうちに仕込んでおいた炊き込みご飯とお豆腐とネギ、ワカメ入りの味噌汁、さわらの塩焼き、きゅうりとわかめ、おじゃこの酢の物が作業後に待っている。耕運機から降りてきた圭司さんと雑草を一通り抜き終えた私は「「お疲れ様」」と互いに声を掛け合った。しばし、私が空気の冷たさに手をこすっていると、彼が上から大きくて暖かい両手で包み込んでくれた。「えーっ、あったかい。どうして?」恥ずかしさを隠して私は彼に訊いた。「子供のように身も心も純真だからだよって言ったら聞こえはいいけど、心が単に子供なんだよ」「あっ、分かった。幼稚ってこと?」「そういうとこ……」話ながらいつの間にか、私はすっぽりと彼の腕の中にいた。『ずっと、こうしてたいな……』私は何て言えばいいのか分からなくて空を見上げた。「茜色の空がきれい……。とても幸せです」そんなふうな言葉がきれいな夕焼け空に感化され、口をついて出てきた。すると、圭司さんが私の頭の上にそっと顎を乗せて「僕も……」と言ってくれた。その瞬間不思議な感覚に襲われた。宇宙からそのまま地球に向かって、地球上の畑にいる私たち恋人同士をズームインして俯瞰されている気分になる。その視点は私の肉体を超えた存在だと感じる。初めての体験に私は心震えたのだったが、このあともっとすごい感覚を体験することになった。もともと根本さんには好感を持っていたし、自分たちが今生結ばれる縁だと知らされてからどんどん好きになっていったのは確かだけれど、一緒に夕飯を摂っている時にそれは……その感情は突然訪れた。私の心の臓が、もとい、私の心臓が俄かに騒がしくなってきたのだ。根本さんの食事をしている様子を見ているだけで恋しい気持ちが募り、そのあまりの気持ちの強さに私は落ち着きを失くす。彼を抱きしめて……頭も肩もその背中も腕も、全て自分のものにしたいなどという、襲ってしまいたいという欲情に付き動かされることに。こんな怖ろしい初めての自分《私》の感情など知る由もない彼は、いつもの通り紳士的な振る舞いで時をやり過ごし、車で帰って行った。どうしてこうなった
77 年が明けて1月は寒かったので、どちらかの家で過ごすことが多かった。そんな中、ドライブを兼ねてお寺巡りなどもした。そして2月の初旬の土曜日にはウォーキングをして、なまった身体を引き締めようということで、寒い中、その辺を散歩することになった。7~8分歩くと、ちょうど草ぼうぼうになった我が家の畑の側を通ることになる。足を止めて、私は根本さんに言った。「ここ家《うち》の畑なんです。数年前までは母の知り合いに野菜を栽培してもらってたのですが、その方もご高齢で足腰が弱ってきて作れなくなってしまって……。そのあとは若い人の知り合いもいませんでしたし、私もここからすぐに通えるようなところに住んでなくて、その上、そのあと父が亡くなり母親は再婚して遠方へ嫁いで行き、というようになって、結局畑は今のような状況になってしまいました。でも落ちついたら少しずつでも野菜を作ってみたいなぁなんて考えてはいるんですけど、広くはない畑ですがそれでも私一人だとちょっと手に余りそうな感じです」「野菜をもう一度作るための土にするのは手作業だけではできないですからね。家に車で運べる小型の耕運機があるので今度持ってきますよ」この日そんなふうに言ってくれた根本さんは翌週、約束通り畑まで運んでくれてその上、自ら畑をその耕運機で耕してくれた。今年は畑の回復を目指し植え付けをせず、自宅の庭や公園などで拾ってきた落ち葉を梳き込み除草剤は使わずに定期的に耕していけば、雑草の根も繁殖せずに秋には枯れた形になり、土と落ち葉も撹拌《かくはん》されるので来年は良い土壌になるんじゃないかと考えている。ということで、植え付けは来年までのお楽しみだ。何を育てようかなと考えるだけでもあぁ楽し。こうして1月のデートは畑の土壌作りに終始した。そして作業終わりには我が家でのまったりお家ごはんに会話タイム。
76私は翌日早々に離婚届を出しに行った。昨夜、よほど根本さんにもう夫から離婚届を受け取っていて、あとは出す だけであると話そうかと思ったのだが、やはりちゃんと届けを出したあとで 正式に離婚し、何のしがらみもなくなってから伝えた方がいいように気が して、話せていない。できるだけ早く伝えたいという思いから、離婚届を出した後すぐにメールで 伝えようかとも思ったけれど、これってメールで伝えるようなことじゃない ような気がするのよね。それで年内に話すことができればいいのにとうじうじ考えていたら、数日後 に根本さんから『除夜の鐘を聞きに行きましょう』とのお誘いがあり、何と か今年中に報告できそうな予感。大晦日になり、私たちは約束通り近隣のお寺《本能寺》に向かった。歩きながら道々、私は真っ先に 「実は先週夫の所へ行って離婚届を受け取り、月曜日に市役所へ行き、 出してきました」と、離婚が成立したことを話した。 「ちゃんと受理されましたか?」「はい、思ったよりあっけなかったです。 家を出た時は、いつかはっきりと離婚が決まって届けを出す日がきたら、 未練なんてこれっぽっちもなくても、多少感傷的にはなるのかもしれない って思ってました。けど、そういう感傷的になんてちっともならなくて、さっぱりとした気持ちむで役所から帰って来れました。たぶん根本さんのお陰だと思います」「なら、良かった。 じゃあ今からあなたのこと、下の名前で呼ばせてください」「はい」「美鈴さんも僕のことは圭司《けいし》と呼ばないと駄目ですよ」「はいっ、が……頑張ってみます」「うれしいです。あなたにしがらみがなくなって。 これでお天道様に恥じることなく付き合えますからね」「はい……」私は心の中で彼に謝罪した。『ごめんなさい。一度、他の誰かと結ばれてしまった身で』と。これは心の中でずっとこの先も思い続けると思う。だけど、彼に言うつもりはない。 こんなことを言ってしまえば、彼を嫌な気持ちにさせるだけだと思うから。 私が結婚する前に私たち、出会えれば良かったのに。だけど、欲張ってはいけないのかもしれない。 出会えてなかったことを考えてみれば、こんなふうな再会になったとはいえ、 今生で今からでも夫婦になれるような形で出会えたのだから。 しみじみと感傷に浸